2013年5月20日月曜日

【研究ノート】三好昭一郎著「徳島藩庚午事変の検証」から学ぶ/松本 博/〔連載第1回〕

  
    三好昭一郎著(2011年12月15日発行)『阿波近世史論―検証と再構築―』所収
    「徳島藩庚午事変の検証 -その背景の見直しを中心に-」から学ぶ
  〔連載第1回〕

松  本     博            

  このたび三好昭一郎氏が表記の労作を公にされた。この論文は、2011年1月に発表された『阿波郷土史論集』PART7所収論文「明治三年徳島藩騒擾事件の再検討」に徹底検証のうえ補筆したものであると氏は述べておられる。とくに《戊辰戦争と徳島藩の活躍》という新たな章を設け、この事変の背景として戊辰戦争における徳島(本)藩側の「活躍」を具体的に論証されようとしていることは注目される。また三好氏は冒頭、これまで阿波、淡路のそれぞれにおける研究に誤謬や偏り、歪曲があったことを指摘し「一挙に事が運べそうもない」としながらも、この事変に関する膨大な史料の選択や歴史的証言の信憑性に疑問をいだきつつ「先行研究を批判することから始めたい」と意欲的に述べておられる。

  そこでまず、三好氏が検証の枠組みとして設けられている項目の順を追って、筆者(松本)の気がついた部分をとりあげながら、この提案論文から学ぶべきところやいささか気になることがらを述べてみたい。

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    1 研究史の再検討

  ここでは、三好氏はまず『徳島県史』・『兵庫県史』の記述の明らかな間違いや不十分さについて述べられているが、それはここではさておき、三好氏が『洲本市史』における新見貫次氏の諸説を紹介している部分は、しっかりと耳を傾け今後の研究の参考にすべきものと考える。

  稲田氏の家老職、洲本城代職、洲本仕置職の成立の時期とその後の職務・権能・権限の推移の問題を新見氏は『洲本市史』でどう書かれているかを三好氏は引用する。そして「その論旨は歯切れよくない」とことわりつつ、新見氏のいう「城代や仕置といってもそれが世襲でなくその人によって違うので、淡路全体の支配者はあくまで蜂須賀氏であり、その任命を受けていろいろの職務を担当したのが稲田氏である」とする説は実証的論究であると主張する。そして三好氏は「淡路経営の機構は洲本仕置職という藩の出先機構と考える」とし、これまでの稲田氏による淡路の一円支配または委任統治という考えや、筆者などがいう徳島藩政の「二重構造論」を否定する。淡路における稲田氏を過大評価する説の否定ともいえよう。

  今後の庚午事変の背景を探ることを目的とする研究において、稲田氏の徳島藩筆頭家老職・洲本城代職・洲本仕置職のそのそれぞれの成立の過程、年代および任命権など、この複雑な問題は、制度上の問題か、単なる機構の問題か、または実質的権能の問題か、徳島藩の藩内の権力基盤の問題か、そしてさらに対幕府関係は捨象できるかなどが再検討される必要があるであろう。また「世襲」の意味と現実的実態の推移の問題も同様である。それらを説得力をもって語れることは、幕末徳島藩における稲田氏の存在について検討する場合の重要な指針となるものと思われる。


    2 幕末徳島藩の政治過程

  ここでは、藩主斉裕の政治的立場とその子の世嗣茂韶時代の藩の立場および行動の問題が問われる。幕末の徳島藩は11代将軍家斉の第22子であった斉裕を養子に迎え13代藩主とした。12代藩主蜂須賀斉昌には子がなく、しかも時代は天保期という藩財政の窮迫と百姓一揆の多発する藩内事情もあったこと。また、斉裕が乞われて幕政に関わったために藩の政治を家老層に委ねる体制に頼ることとなったこと。そのことから政局のゆくえを占う藩論の統一もできなかった。それらの事情を三好氏は「筆頭家老稲田植誠主従の尊攘運動という独自の行動に駆り立てる背景となった」と述べる。幕末の徳島藩をこれまで一般に「曖昧藩」「公武合体藩」「公議政体派」としてみたり、さらには藩主茂韶の時代を、曖昧藩から討幕派への転身などと評価されてきた。

  三好氏はその時期の政治過程を具体的に整理しようとする。淡路の海防体制の強化、とりわけ由良浦、岩屋浦の台場築造が注目されたこと、また、藩内攘夷派の結集に努めた新居与一助や、藩外の攘夷派との交流を深めたという志摩利右衛門などを「氷山の一角」として紹介するが、結局藩内の志士たちの動向は「個別分散的で、藩論を討幕路線に転換させる力とはならず、藩中枢を動かすものとはならなかった」という。そして「こうした藩内の情勢が稲田主従の運動に対して、決定的な負い目となって藩士たちの間に反稲田感情を定着させてきたことは否定できない」という。

  さらに三好氏は、徳島藩の政治姿勢を「曖昧藩」と規定することに異議を唱えるが、幕末における現実の政治状況のなかでは、佐幕も討幕もその立場上鮮明にすることもなかった「斉裕治下の徳島藩は確かに曖昧藩とみられていたことは確かなことである」とも述べている。    (連載第1回終わり/次週に続く)

※ この記事は全4回連載の予定です(次回は、5月27日〔月〕公開)。